香櫨園の住宅地
あらすじ:
登山に生きがいを見出だしている夫をもつ美貌の女性八千代は、夫の心を得られない淋しさの中、カジカの研究に全精力を傾けている男に出会い、惹かれていく。彼女の父親、梶は関西の大実業家であり、地位も名声も教養もある「昨日」の人である。彼はデザイナー志望の杏子の志を援助している。これら5人が、研究書の出版、登山のための資金調達、デザイナーへの夢等々、それぞれの夢の実現の努力の過程で、微妙な糸が繋がり始める。明日の可能性を秘めた4人を昨日の人と絡ませながら、それぞれが背負っているものが「明日」を作っていく様が描かれた著者の新聞小説としての代表作。
作品より引用
香櫨園までの切符を買った。 阪神電車の香櫨園で降りると、酒場で電話をかけた時、八千代から言われたように、海の方へ向って歩いて行った。そして海へ突き当る少し手前で、いい加減見当をつけて、右手の低地へ降りて行った。そして最初の家で、梶大助の家をたずねた。
「梶さんの家ですか」
若い会社員の細君らしい女は言った。
「はあ」
「お向いです」
見ると、向いの家は、さして大きい構えではないが、半洋風の造りで、石塀のまわったなんとなく金のかかっている感じの家である。
出典:『あした来る人・波濤 <井上靖小説全集7>』 1973年1月 新潮社
初出:「朝日新聞」 1954年3月27日~11月3日