香櫨園、夙川界隈
あらすじ:
太平洋戦争末期、語り手の僕は芦屋にあった実家を空襲で焼かれ、父親と二人、茫然自失していた。
そこを、かつて家政婦として通っていたお咲さんの世話で、彼女が現在仕事をしているお屋敷に、僕だけ住み込むことになったのだった。
そのお屋敷には、女主人と、姿をみせない病人が二人だけ、住んでいた。
戦争がますます終末的な様相となったある日、僕は、決してみてはいけない、と注意されていた病人の姿をかいま見てしまう。そのおそるべき正体とは…。
作品より引用
芦屋のほんとうの大邸宅街は、阪急や国鉄の沿線よりも、川沿いにもっと浜に向って下った、阪神電車芦屋駅附近にある。山の手の方は新興階級のもので、由緒の古い大阪の実業家の邸宅は、このあたりと、西宮の香櫨園、夙川界隈に多かった。ほとんどの家が石垣をめぐらした上に立っており、塀は高くて忍び返しがつき、外からは深い植えこみの向うに二階の屋根をうかがえるにすぎない。その屋根に立つ避雷針の先端の金やプラチナの輝きが、こういった邸に住む階級の象徴の様に見えた。 (「くだんのはは」p.43)
西宮大空襲の夜、僕は起き出して行って、東の空の赤黒い火炎と、パチパチとマグネシウムのようにはじける中空の火の玉を見つめた。僕はいつもの習慣でゲートルをまいたまま寝ていたが、その夜ばかりは阪神間も終りかと思って、いつでも逃げられる用意をした。 (「くだんのはは」p.52)
出典:小松左京『自選恐怖小説集 霧が晴れた時』所収 『くだんのはは』より 角川ホラー文庫