プロフィール 1916年3月28日 ー2013年10月25日
作詞家、訳詩家。神戸女学院大学卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。月刊誌『歌劇』の編集長を務めた。
越路吹雪のマネージャーを長年勤め、マネージャーとして活動する一方で、越路が歌うシャンソンの訳詞を手掛けたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。
ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』や加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、園まり『逢いたくて逢いたくて』など数多くのヒット曲を生み出してきた。
2009年7月7日 岩谷時子音楽文化振興財団を設立。2010年4月に第1回「岩谷時子賞」が制定され、 第1回の受賞者はピアニストの辻井伸行であった。
学歴
神戸女学院大学部英文科
栄典
文化功労者
主要作品
作詞(歌謡曲)
恋のバカンス、君といつまでも、恋の季節、逢いたくて逢いたくて
男の子女の子、つばさ
作詞(アニメ・その他)
サインはV
訳詞
愛の讃歌
サン・トワ・マミー
ラストダンスは私に
ある愛の詩
出典
「岩谷時子」『Weblio』URL:http://www.weblio.jp/
西宮とのかかわり
浜脇小学校に通った岩谷時子は、大正十五年第三(安井)小学校の創設で、ここの校区となり、四年生から転校、安井小第一回の卒業生となった。
「今までの私の人生の中で、一番思い出の多い幼年期と少女期を西宮で過ごした私は、西宮という字を見るだけで、砲台のあった夏の海や、十日戎のお祭や、近所に住んでいた誰彼の顔が蛍火のように瞼に浮かんでくる。
(中略)私が入学した水抜小学校(現在の浜脇小学校)辺りは、どんなになっているのだろう。学校の前に『ぜんべい』と呼んでいた店があったが、あれは何を売る店だったのだろうか。学齢に達しない私を、毎日小学校へつれてゆき、教室で一緒に座らせておいてくれた、八重子さんという近所の小学生のお姉さんは、どんな一生を送っておられるのだろうか。
私たち親子三人が住んでいた夙川の家は、空襲で焼けてしまっただろうか、家の前を流れていたあの小川は・・と思い出せば限りもなく、昔のままのたたずまいに、西宮の町を戻せるものなら、とんで行って見たいもの、逢いたい人ばかりである。
まだ、夙川を蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい叙情的な西宮の風物が、幼かった私のこころに根をおろし、後年、作詞家となる運命にみちびいたのではなかろうかと、今でも思うことがある。」
関連のある作品
思い出の町よ(グラフ西宮)