甲子園ホテル、夙川河口
あらすじ:
敗戦で焦土となった関西の街の中で、父親との確執を抱え、自殺に失敗した諏訪は、幼い頃に感じた、「美しいものを奪われた」悲しみを抱いたまま、それを原動力に闇屋の世界に入り込んでいく。その奪われた美しいもの、多津子との因縁めいた関係を縦軸に、戦後の日本の混乱の中で生きる男の孤独が描かれている。
作品より引用
高男は多津子を知っていた。知っているといっても、まだ高男が十歳になるかならないかの頃のことで、しかも会ったのは後にも先にも一度だけである。高男はその夜のことを現在でもはっきりと覚えている。それは甲子園ホテルで行われた多津子の結婚の披露宴の席でのことであった。高男はその席へどういう関係か父と母と三人で呼ばれていた。
出典:『黒い蝶・射程 <井上靖小説全集9>』 1973年4月 新潮社
初出:「新潮」 1956年1月号~12月号