西宮港、街道
あらすじ:
荻松本村の藩士、杉百合之助の次男として生まれた吉田松陰は、幼くして藩の山鹿流兵学師範の家柄である吉田家を継ぐ。そのため、猛烈な勉学を強いられる。実叔父・玉木文之進から教え込まれたのは、「侍とは何か」「私」を捨て、「公」に生きる教えである。その後彼は脱藩し、佐久間象山の門を叩き、黒船に便乗しようとし、罪をうける。松陰は野山獄に入獄されたのを好機とし、松下村塾を開くが、その後の安政の大獄の難に合い、処刑される。その松下村塾に育った奇才に久坂玄瑞と高杉晋作がいた。現実主義の高杉にとって「忠義と革命は矛盾しない」、脱藩し長州と滅ぶべき幕府とを戦わせるよう活動する。「灰燼のなかから新しい秩序が生まれる」というのである。攘夷戦、四カ国の砲撃、そして講和。長州藩は佐幕派が主流になる。ついに晋作は長州藩に反旗を翻す。わずか80人の兵でクーデターを決起し、きわどく成功させる。幕府は晋作の長州藩を潰そうと「長州大討ち入り(四境戦争)」を起こすが、長州藩が勝利する。しかしこのときすでに晋作は病気に冒されていた。「おもしろきこともなき世を おもしろく」が辞世の句で、この後を、彼を看護していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けたと言う。題名「世に棲む日日」の所以となるものである。
作品より引用
西宮港は現今でこそ見るかげもないが、晋作のこの時代、この港ほど西国方面への船舶でにぎわっている商港はなかった。
幕府はこの港を治安上重視し、その警備を、伊勢の津の藤堂氏三十二万三千石に請け負わせている。藤堂藩の人数は西宮戎の北の西安寺という寺を宿所とし、日中は浜へ出張って、船が入港するつど、その船客を一人々々検問している。
(どうやら、よほどきびしいらしい)と、船が西宮に近づくにつれ、晋作はおもったが、いまさら町人の風体に変われば、他の船客が怪しむだろう
出典:『世に棲む日日』 2003年3月 文藝春秋
初出:「週刊朝日」 1969年2月~1970年12月