プロフィール 1890年11月15日 – 1984年10月17日
明治-昭和時代の歌人,詩人。18歳で与謝野鉄幹、晶子主宰の新詩社に参加。筆名砕花で「明星」に短歌を発表した。
石川啄木に思想的な影響を受け、明治45年(1912)5月、啄木の死を悼み、歌誌「曠野」に『民衆の中に行く』”GoingToPeople”というエッセイを発表している。
歌集『悲しき愛』を大正元年(1912)に出版、その前後からカーペンター、トロウベル、ホイットマンを日本に紹介。
訳詩集カーペンター『民主主義の方へ』(大正5年)、訳詩集ホイットマン『草の葉』(大正8年)、エッセイ『解放の芸術』(大正11年)等を出版した。
福田正夫主宰の詩誌「民衆」トロウベル号には、英文のエッセイを発表。福田正夫・白鳥省吾・百田宗治らとともに民衆誌派の詩人と目された。民衆誌派は、ホイットマンのデモクラシー精神を受け、平明な言葉で市井人・農民・土などをとりあげて、従来の詩の領域をひろげた。
富田砕花の詩はストイックな求道者の趣きがあり、表現は精緻である。大正のはじめ、病気治療のため芦屋に転地。
田島マチを知り、大正9年(1920) に結婚。以後芦屋に定住した。詩作のかたわら全国各地を旅し、また多くの校歌、市町歌を作詞した。
その多彩な業績から”兵庫県文化の父”ともよばれた。昭和23年(1948)第一回兵庫県文化賞を受賞。兵庫県が舞台の作品に『阪神沿線』『歌風土記兵庫県』『木地屋のことども』がある。
学歴
日本大学殖民科
主要作品
歌集「悲しき愛」
詩集「地の子」
訳詩集 ホイットマン「草の葉」など。
出典
「富田砕花」『芦屋市公式ホームページ』URL:http://www.city.ashiya.lg.jp/
西宮とのかかわり
昭和二十四、五年ごろ、県下をくまなく歌行脚して、発表したのが「歌風土記 兵庫県」(神戸新聞社発行)。
叙景一本で西宮を描いた。
甲山と神呪寺、トラピスト修道院、仁川五ヶ池,生瀬、座頭谷、蓬莱峡、教行寺、酒蔵などを歌った。
砕花は関西学院でアイルランド文学の講義をしていたこともある。西宮在住の画家、津高和一と親交を結んで、共に詩作にふけっていた。